御由緒 |
当社の御創建は、寛治元年六月十七日(一〇八七年)に醍醐三宝院宮勝覚僧正が、紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮守として、熊野三社大権現と号し奉る。
口碑によれば、後三年の役に、源義家公、社参せられ、帰途再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝へられる。
その後、応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、明応三年六月(一四九四年)、上田蔵人が普請奉行となり、宏壮なる社殿が再建せられた。
又、永正七年六月二十日(一五一〇年)、権現山合戦の砌、兵火に罹り、烏有に帰してしまった。
次で、天正五年六月(一五七七年)、時の別当恵賢僧都等が相はかり社殿を建立し奉る。
天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に侍し、秘法を修し奉りしことなど、徳川家との関係深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘(ほうとく[おふだ])を献上し奉ったと伝へられる。
その後、正徳二年六月(一七一二年)、山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ遷し奉り、旧地には小祠を安置し、社地三反八畝十歩を有していたが、明治四年、之を上地す。
慶応四年一月七日(一八六八年)、神奈川大火により烏有に帰したが、逐時再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ、明治四十年四月、神饌幣帛料供進社に指定せらる。
昭和十一年八月、御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。
昭和二十年五月二十九日、戦災により焼失、剰え、境内地をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ツ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉祀す。
同二十七年八月、宮神輿を奉製、その後、接収解除となり、再建復興に努め、同三十八年八月、現社殿を完成。遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月、竣工奉祝祭を執行した。
その後、四十一年十一月、地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として、舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。
昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り、記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要を誌し奉る次第であります。
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